ドーキンスは,宗教を持つ社会が持たない社会を全滅させたときに宗教行動が選択された,という説明は成り立ちうると認めている。ただこれは,自然淘汰が個体ではなく集団に作用しうるかという,生物学者のあいだでも意見の分かれる問題を提起する。この問題についてはのちほど論じる。ここで注目すべきは,集団選択は生じうるが何ら重要性はないとドーキンスが論じている点だ。したがって彼の見解では,集団間の競争を通して宗教が適応的になった可能性はない。
彼は人々が信仰のために死んだり殺したりすることについて,みずからの誘導システムによって火に飛び込む蛾の誤った行動を引き合いに出す。そんな蛾の行動が非適応的なのだから,宗教もまた非適応であると論じ,“宗教を誤って生み出す初期の優位な形質は何か”と問う。そして“年長者の言うことを何でも受け入れるという単純なルールを持つ子どもの脳に,選択的優位性がある”と仮説を立てる。ドーキンスによれば,宗教的信念は親から影響を受けやすい子どもに受け継がれ,ウイルスのように広まる。これはすべての世代でくり返される。したがって宗教は,親の言うことを信じる子どもの性質から偶然かつ副次的に生じたものである。
この議論は少々こじつけに思える。意味のない情報なら生存競争に役立たず,アフリカを出て以来すべての人類社会で2000世代にわたって受け継がれてきたとは思えないからだ。宗教は大きな負担を強いる。オーストラリアのアボリジニの儀礼からも明らかなように,その実践には膨大な時間を必要とする。もし宗教になんの利点もなかったら,それに多くの時間を費やした部族は,軍備にすべての時間をつぎこんだ部族に対して非常に不利になっただろう。
ニコラス・ウェイド 依田卓巳(訳) (2011). 宗教を生み出す本能:進化論からみたヒトと信仰 NTT出版 pp.76-77
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