もし認知作用にかかるエネルギーを節約しなかったら,私たちは日常生活が突きつけてくる要求に圧倒されて,機能停止に近い状態に陥るだろう。歯を磨く,タクシーを止める,感情を抑える,制限速度を守るといった日々の活動に逐一注意を払わなくてはならないとしたら,どうだろう?実際,テニス選手としての才能の大部分——そして,市民としての道徳的責任の大部分——は,一連の適切な「自律的」行動を習得することにある。よく知られているように,アリストテレスも「美徳とは,有徳の行動を重ねることによって人間の中に形作られる」と言い切っている。
したがって,この種の自由を,あるかないか,白か黒かという観点で捉えたら誤りになる。おそらく,白や黒や灰色の要素から成るモザイクと捉えるべきなのだろう。私たちの行動のある面はときおり,意識の制御下にある。とりわけ,難しい判断を下す必要があったり,計画を立てたり,重大な局面に立たされたりしたときなどがそうだ。だがその他の場合には,意識は蚊帳の外に置かれている。けっきょくのところ,ほとんどすべての行為が意識的な過程と無意識的な過程の入り交じったものから生じ,その割合は時々の状況によって変わると言えそうだ。行動や自制心をもたらしうる意識的な精神状態を人間が持っているかぎり,とくに法律も人々の道徳観全般も,根底から見直す必要はない。
サリー・サテル スコット・O・リリエンフェルド 柴田裕之(訳) (2015). その<脳科学>にご用心:脳画像で心はわかるのか 紀伊國屋書店 pp.209
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