信仰心の厚い桂昌院は江戸市中に大きな神社仏閣を建てさせた。神田橋の護持院はそのひとつであり,祈祷僧の隆光が桂昌院の帰依を得て護持院大僧正に任じられ,関東真言宗の大本山として威勢を示した。
隆光は世継ぎが生まれる霊力のあるところをみせねばならない。だが,いくら祈祷をくり返しても側室たちに懐妊の徴がみられない。窮余の末,桂昌院と綱吉に吹き込んだのが『生類憐れみの令』の発令である。
『憐みの令』そのものは「君主の仁慈は鳥獣にまでおよぶ」という儒教の理想を実現しようとしたもので,そこに内在する自然を尊重し動物を愛護する思想は現代人にとってもかえりみる価値はありそうだ。だが綱吉の顔色ばかりうかがう役人たちは,法の精神を理解せず運用方法をゆがめた。町民たちは犬や猫に石を投げただけで牢屋に放りこまれ,ときには島流しの憂き目に遭った。庶民は悪法を憎み,綱吉を「犬公方」とののしった。
篠田達明 (2005). 徳川将軍家十五代のカルテ 新潮社 pp.85-86
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