科学は,人間が行わねばならなくなって以来ずっと,深く社会に根ざした活動である。科学は予感や直感,洞察力によって進歩する。科学が時代とともに変化するのは大部分が絶対的真理へ近づくからではなく,科学に大きな影響を及ぼす文化的文脈が変化するからである。事実とは情報の中の純粋で汚点のない一部分ではない。文化もまた,我々が何を見るか,どのように見るかに影響を与える。さらに,理論というのは事実からの厳然たる帰納ではない。最も独創的な理論は,しばしば事実の上に創造的直観が付け加わったものであり,その想像力の源もまた強く文化的なものである。
この議論は科学活動にたずさわっている多くの人々にとっては,まだタブーとして感じられるか,ほとんどの科学史家には受け入れられるであろう。とはいえ,この議論を展開するとき,いくつかの科学史家グループに広まっている次のような考えは行きすぎであり,私は同調しない。その考えとは,価額の変化は社会的文脈の変更を反映しているにすぎず,真理は文化的前提を除いたら無意味な概念であり,それ故,科学は永遠の解答を示すことはできない,というものである。まさにこれは相対論的な主張であり,実際に科学活動にたずさわっている1人として,私は同僚たちと次のような信条を共有している。すなわち,「事実に基づく現実(ファクチュアル・リアリティ)」があること,また科学は,ときには風変わりで常軌を逸したやり方ではあるが,その現実を知りうるということ。私はそう信じている。ガリレオは月の運動に関する理論上の争いで拷問台を見せられたわけではない。彼はそれ以前に,社会的,教義的安定のために教会が伝統的にもっていた論拠を脅かした。つまり地球は宇宙の中心に位置しその周りを惑星たちが廻っている。司教はローマ法王に従属し,農奴は領主につかえる。こういう静的世界の秩序という見方をガリレオは脅かしたのである。しかし,間もなく教会はガリレオの宇宙論と和解した。彼らはそうせざるをえなかった。地球は現実に太陽の周りを廻っているのである。
スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい:差別の科学史 上 河出書房新社 p.75-76
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