17世紀,「魂と肉体」といった神秘主義的な概念に代わって登場したのが,「機械のような脳」という考え方であり,神経科学の分野はその考え方に触発され,それ以後発展してきた。ガリレオ(1564-1642)は,「惑星は機械的な力によって動かされている非生命的物体である」という考えを示したが,その発見に感動した科学者たちは,すべての自然は物理の法則にしたがって,大きな宇宙時計のように機能していると考えるようになった。そして,身体の臓器をはじめとして,生命のある個体までも,すべて機械であるかのように説明しようとした。
これより昔は,わたしたちは自然のすべてを巨大な生命体としてとらえていた。これはギリシャ人の考え方で,2000年ほど続いていた。もちろん,この頃は,臓器を生命のない機械などと考えたりはしなかった。もっとも,「機械的生物学」も,最初に広まったときには輝かしい独自の成果をもたらした。ガリレオが講義をした場所,イタリアのパドゥアで解剖学を学んでいたウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)が,血液が体内をどのように循環するかを発見し,心臓がポンプのように機能することを示したのだ。ポンプというのは,いうまでもなく単純な機械である。
ほどなく科学者のあいだには,科学的な説明をしようと思ったら,機械的にする----つまり,運動の機械的な法則にしたがうことが必要だ,という風潮が広まった。ハーヴェイに続いて,フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)が,脳と神経系もポンプのように機能しているという説を唱えた。デカルトの説では,わたしたちの神経はまさにチューブのようなもので,四肢と脳,脳と四肢を結んでいるというのである。デカルトはまた,反射がどう作用するかを初めて理論づけた。皮膚に触れられると,神経チューブ内の液体のような物質が脳に流れていき,機械的に「反射して」神経をもどってきて,筋肉を動かすというのだ。ずいぶん乱暴に聞こえるが,実際はそれほどちがっているわけではない。じきに科学者たちは,デカルトの原始的な説明図をもっと洗練されたものにし,液体ではなく電流が神経を通っていると主張しはじめた。
脳が複雑な機械であるというデカルトの図式から発展して,現代のわたしたちは,脳はコンピュータであり,機能は局在化されたものと考えるようになった。機械と同様に,脳も部品を組み立てたものであるとみなすようになったのだ。それぞれの部品の収まる位置は決まっているし,ひとつの部品はひとつの機能しか担わない。つまり,ある部品が壊れたら,その代わりはない。結局のところ,機械が新しい部品を生み出すことはないのである。
ノーマン・ドイジ 竹迫仁子(訳) (2008). 脳は奇跡を起こす 講談社インターナショナル Pp.25-26.
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