《知性的であること》を定義するには,たとえば知的な弁護士や大学教授と,知的ではない弁護士や大学教授の違いを見きわめることが必要である。もっと適切な言い方をすれば,なぜ弁護士や大学教授が,あるときは決まりきった純粋な職業的流儀にのっとって行為しているとされ,あるときは知識人として行為しているとされるのかを見きわめることが必要である。両者の違いは,仕事の基盤となる知識の性格ではなく,知識に対する態度にある。私が示唆してきたように,こうした人物はある意味では知識のために生きている——つまり,宗教的傾倒とじつによく似た,精神生活への献身的意識をもっている。これはべつに驚くにはあたらない。知識人の役割は,重要な部分で聖職者の職務を受け継いだものだからである。すなわち,考察という行為のなかに絶対的な価値を認める,ある特殊な意識である。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.24
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