反知性の立場はある架空の,まったく抽象的な敵意にもとづいている。知性は感情と対峙させられる。知性が温かい情緒とはどこか相容れないという理由からである。知性は人格と対峙させられる。知性はたんなる利発さのことであり,簡単に狡猾さや魔性に変わる,と広く信じられているからである。知性は実用性と対峙させられる。理論は実用と反対のものだと考えられ,「純粋に」理論的な精神の持ち主はひどく軽蔑されるからである。知性は民主主義と対峙させられる。それが平等主義を無視する一種の差別だと考えられるからである。こうした敵意の妥当性がいったん認められると,知性を,ひいては知識人を弁護する立場は失われる。だれがわざわざ,情緒の温かみ,堅固な人格,実践能力,民主的感情を犠牲にする危険を冒してまで,せいぜい単に利口なだけ,最悪の場合は危険ですらあるタイプの人間に敬意を払うだろうか。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.41-42
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