精神(マインド)と心情(ハート),情緒(エモーション)と知性(インテレクト)のあいだの緊張関係は,いずこでもキリスト教徒が常態として経験することである。それゆえ,宗教的反知性主義を特別にアメリカ的なものとするのは誤りだろう。アメリカが発見されるずっと以前から,キリスト教社会は長いことふたつのグループに分裂していた。ひとつは,知性が宗教のなかにきわめて重要な地位を占めなければならないと信じる人びと。もうひとつは,知性は感情の下位に置かれ,または感情の命令の下に,実質的に放棄されるべきだと信じる人びとである。つまり私が言いたいのは,新世界で新しい,さらに悪質な反知性主義が発見されたということではない。むしろアメリカ的条件の下で,片や既成の権威と,片や信仰復興論や熱狂者の運動とのバランスが大きく後者に傾いてしまったのである。その結果,学識ある職業的牧師は地位を失い,彼らの気性に合った理性的なスタイルの宗教も,当然影響を受けた。歴史の早い時期に,プロテスタントと異議申し立ての精神とを継承したアメリカでは,宗教の性格をめぐる普遍的な歴史的闘争が極端に極地的な色彩を帯びて展開した。そして宗教的熱情と信仰復興運動が,もっとも鮮やかな勝利をおさめた。アメリカの反知性主義の強さと浸透力の大半は,その宗教生活の特異性に由来する。とくに知識人を受け入れる確固たる制度の欠如,福音各派の競合する教派主義は大きな影響をあたえた。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.49
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