ところが根本主義者の精神はまるで異質な存在だ。本質的にマニ教的思想をもつ彼らは,世界を絶対善と絶対悪の戦場と見なし,妥協を軽蔑し(彼らの見方に立てば,たしかにサタンとの妥協はありえない),いかなるあいまいさも許さない。また,たいした違いがないと思うことには重要性を見出すこともない。たとえば,リベラリストは現実的な目標をもった社会主義的政策を支持する。だが社会主義も彼らにすれば,無神論であることが明白な共産主義の変種にすぎないのである。すぐれた政治的知性なら,まず政治の現実を考える。そして敵対する勢力間の均衡にもとづいて,当初定めた目標が実際どの程度まで達成できるかをつかもうとする。ところが世俗化した根本主義者の精神は,まずなにが絶対的な正義なのかを決めてしまう。彼らにすれば政治の世界は,この正義を実現しなければならない戦いの場なのだ。たとえば,彼らは冷戦を現実世界の政治問題——ふたつの権力システム間の闘争であり,生き残るためにはある程度の妥協もやむをえない——とは考えず,たんに信仰間の衝突だと考える。また勢力バランス上の現実——たとえばソ連の核保有など——にではなく,共産主義者との精神的な戦いに関心をもつ。とくに時刻の共産主義者との戦いに関心をもつ根本主義者にとっては,共産主義者が現実になにをしようと,あるいは彼らが存在していようがいまいが問題ではなく,むしろ共産主義者は,精神の戦いにおける敵の原型を象徴しているにすぎない。根本主義者が一度も生身の共産主義者を見たことがない以上,現実味のある存在であるはずはないのだ。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.117-118
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