ジャクソンは,幸運にも「活力と独自の理解力」を損なうような,型にはまった教育を免れた人物だといわれた。彼は行動の男であり,「自然という学校で教育を受け」,「人工的なところはなにもない」人物だとされた。こうした見方によれば,彼は「学校の教育や弁論術に汚染されず」,「アカデミズムによる妄想的な思索に判断をくもらされることもない」,「きわめて高い生来の精神力と実践的な常識,あらゆる有益な目的にかなった判断力と識別能力の持ち主」ということになる。そして,「こうした資質は,賢者が修得したどんな学問よりもはるかに価値がある」ものとされた。さらに,彼の精神は「三段論法という手間のかかる行程も,分析という踏み固められたコースも,論理的演繹という慣れきった散歩道も」たどる必要はなかった。彼の精神は自然の直観力を備えていたので,「稲妻のような閃光に導かれて歩み,みずからその進む道を照らすこと」ができるとされたからである。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.139-140
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