自助の作家や《たたき上げ》の人びとが唱えた人格の概念には,彼らが漠然と天才と呼ぶものは入っていない。この考え方の背後には,明らかにある両面性がみられる。「天才」に対してはだれもが羨望のまなざしを向けるものだが,自助の文学においては,人格は必要だが卓越した才能は不要だという見方が支配的だった。それどころか,生まれながらに卓越した才能をもつ人間は,人格を発展させる動機も能力もないと見なされていた。平均的な人間でも長所を伸ばし,常識を磨くことによって天才と同等,あるいはそれ以上の存在になれると考えられたのである。あるニューヨークの商人は「天才は不要だ。もし必要だとしても,何人かの偉人がいったように,その本質は常識の集大成にほかならない」と述べている。こうした立場からみると,際立った才能に頼るのは怠惰,および規律や責任感の欠如につながるものだった。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.225
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