こうした職業教育重視の傾向は,知性よりも人格——または人間性——を重視する傾向や,個性や才能よりも画一性や使いやすさを好む傾向と結びついている。「われわれはまず優秀さを重視していた」とある風変わりな社会の歴史に言及しながら社長がこう述べた。「いまや人格という使い古されたことばがたいへん重要になった。ファイ・ベータ・カッパの会員だろうが,タウ・ベータ・ファイの会員だろうが関係ない。われわれがほしいのは,幅広く豊かな才能のある人びとを操作できる,幅広く豊かな才能のある人物なのだ」。人事担当者は,「どんな進歩的な雇用者でも個人主義者を白眼視し,こうした考えが研修生の心のなかに染みこむのを嫌う」と述べ,研修中の社員も,「私は人間理解のためにいつでも優秀さを犠牲にしようと思います」と答える。ホワイト氏は,「天才との闘い」と題する章でつぎのように述べる——産業科学の分野ですら,こうした慣例が広まっている。企業の科学者たちは応用的知識に専念するように束縛されている。科学者を採用するために作られたある有名な化学会社のドキュメンタリーフィルムには,3人の研究員が実験室で協議している場面に「ここには天才はいない。平均的なアメリカ人が一丸となって働いている」というナレーションをかぶせてある。企業の科学者の創造性は大学の研究者とくらべてあまりにも低い。そして優秀性という表現は,たいてい奇人,風変わり,内向的,変人といったことばと結びつけられている。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.232-233
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