知識人の本質的価値が,批判的不服従派としての役割にあることはまちがいないし,知識人は社会の意見を代弁し,擁護するだけの存在になるよう迫られているわけでもない。だがアメリカの知識人はもはやみずからの国を,逃げ出さねばならない文化的砂漠だとは考えなくなった。ある作家が述べたように,アメリカとヨーロッパを比較するさい,「青年のような気後れ」を感じることもたしかになくなった。いまや知識人は,2,30年前よりずっとアメリカでくつろいだ気持ちになれている。彼らは,アメリカの現実と折り合いをつけたのだ。ある人物は「われわれが目撃しているのは,アメリカのインテリゲンチャのブルジョワ化とでもいうべき過程である」と述べている。変わったのは知識人ばかりではない。国も良い方向に変わった。アメリカは文化的に成熟し,もはやヨーロッパの庇護を受けることはなくなった。富裕層や権力者は知識人と芸術家を認めるようになり,敬意まで払うようになった。その結果アメリカは,知的・芸術的活動の場としてかなり満足できるところとなり,こうした活動が政党に報われる場となった。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.344-345
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