ひとりひとりの知識人にとって問題なのは,個人としての選択である。だが社会全体としてみれば,重要なのは知識人共同体の分極化が,回復不能なほどに進むのを防ぐことだ。すなわち一方は,権力にのみ関心をいだき,権力が押しつける条件をそのまま受け入れる技術屋たち。もう一方はみずからの理想を実現させることよりも,自分たちの純粋性を維持することに関心をもつ確信犯的疎外派知識人である。専門家はもちろんのこと,批判派のなかにも,精神的に自分たちの社会の外側から,その思い上がりを厳しく直視できる人たちが現れる可能性はあり,彼らは人数の点でも自由の度合いにおいても,みずからの存在を強く印象づける勢力になるだろう。両者のあいだで議論がたたかわされる可能性は,おそらく今後もなくならず,また知識人共同体の内部には,権力と批判の両世界の間に立つ能力をもった知性が生まれるはずだ。そうなれば,知識人社会は,相互に反感と違和感をもつ勢力に分裂する危機を回避できる。われわれの社会は,多くの面で病んでいる。だがこの国の健全性は,アメリカ社会を構成する諸要素の多元性と,それらが相互に関わりあえる自由にある。すべての知識人が権力に仕えようとすれば,それは悲劇だ。だが,権力と結びついた知識人が,知識人共同体との連帯感をことごとく奪われるとしたら,おなじように悲劇だろう。こうした知識人が,もはや権力だけに責任を負えばいいと考えるようになるのは,ほとんど避けられないからだ。
リチャード・ホフスタッター 田村哲夫(訳) (2003). アメリカの反知性主義 みすず書房 pp.377-378
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