講義に参加していた受講生たちは,この拳銃が実はオモチャで,今目の前で繰り広げられた恐ろしい場面はドイツの心理学者ウィリアム・スターンが計画した実験の一部だとは知るはずもなかった。スターンは心理学のあらゆる分野に手を出した器用な学者で,IQの概念を生み出し,発達心理学にも携わり,『証言心理学への貢献(Beiträge zur Psychologie der Aussage)』という雑誌を刊行した。この専門誌では研究者たちが,人は出来事をどの程度正確に思い出せるかという問題の解明に取り組んでいた。
スターンが,被験者に45秒間絵を見せ,次にたった今見たばかりの絵について説明させる実験を行って気づいたのは,ほとんどの人の記憶が完璧とはほど遠いことだった。多くの人が,実際には絵のなかに存在しない物体を,見たと断言したのだ。記憶の信頼性は,裁判では特に重大な問題になる。そこでスターンはヤラセの口論の実験を提案し,実際の犯罪に非常によく似た状況を目撃させたのである。
拳銃が発射されると,その場にいた受講者たちはすぐに,口論がまったくの見せかけだったことに気づいた。15人の受講者は「法学部に入って何年目かの学生か見習い弁護士」のどちらかで,その後,目撃したことを書面か口頭で証言させられた。聞き取り調査は,うち3人についてはその夜のうちか翌日に,9人は一週間後に,残る3人は事件から5週間が過ぎた後に初めて行った。事件は15の段階に分けられるが,細かい点をすべて覚えていた人はいなかった。誤答率は27〜80パーセントだった。
予想どおり,目撃者の多くは事件の際の会話を正確には思い出せなかった。しかし,本当に驚かされたのは,一部の目撃者が実際には起こらなかった出来事をでっち上げてしまったことである。たとえば,実際は何も言わずに見ていた人について,その人が何かを言ったと証言したり,口論した二人は両方とも事件の間ずっとその場を離れなかったのに,一方がもう一方よりも先に逃げ出したと証言したりしたのだ。
レト・∪・シュナイダー 石浦章一・宮下悦子(訳) (2015). 狂気の科学:真面目な科学者たちの奇態な実験 東京化学同人 pp.50-51
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