アメリカ人があまりにざっくばらんで馴れ馴れしいことに,たまに苛立つことはある。たとえば今でも,ウェイターに「今晩,このテーブルを担当するボブです」と名乗られると,こう言ってやりたくなる衝動と闘わなければならない。「私はチーズバーガーが食べたいだけでね,ボブ。別に友だちになってくれなくて結構だ」しかし,たいていの場合,それにも慣れて悪くないと思うようになった。なぜならば,それはたぶんもっと根本的な何かを象徴しているからだ。
そう,そこにあるのはへつらいではない。ただ,人間に優劣はないという思想が真に社会全体に行きわたっているのである。何ともすばらしいことではないか。ゴミの収集人も私のことをビルと呼べば,医者も私をビルと呼ぶ。子どもたちの学校の校長も私をビルと呼ぶ。べつに向こうも私もへつらっているわけではない。そう呼ぶものだから呼んでいるだけなのだ。
イギリスでは10年以上にわたって同じ会計士に仕事を依頼していた。その会計士とは親しくはあったが,あくまで事務的な関係だった。会計士は私をブライソンさんとしか呼んだことはなく,私のほうも彼女をクレスウィックさんという以外の呼び方で呼んだことはなかった。アメリカに戻ってきて,私は電話で会計士と会う手はずを整えた。そして,そのオフィスを訪ねたときに会計士が発した第一声は,「ああ,ビル,いらっしゃい」だった。我々はすでに友人同士というわけだ。今では会計士を訪ねると,彼の子どもたちのことを訊くようになっている。
ビル・ブライソン 高橋佳奈子(訳) (2002). ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー 朝日新聞社 Pp.103-104
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