アメリカ人は「アイ・アム・ソーリー」とは絶対に言わないぜ,という話がある。私もよくきいたものだ。訴訟社会で,すぐ裁判沙汰になるアメリカでは,「アイ・アム・ソーリー」という,自分の非を認める発現をしてしまっては裁判で不利だから絶対にそうは言わない,という説だ。
だが,あれは嘘である。確かに,自動車事故をおこしてしまった時は,その理由から「アイ・アム・ソーリー」とは言わないだろう。だけど,肩が軽くふれあってしまった時には反射的に「ソーリー」と言うのだ。人の前を横切る時には「イクスキューズ・ミー」や「パードン」と言う。人が何人も集まっている場所では,そのような衝突を避ける言葉を互いにかけあうのがあちらの分化なんだなあ,と思うほどだ。いろんな国や民族の人が混じって生活しているからだろう。
ところが,日常生活の中では外国人を見ることもあまりない日本人は,無言で,時にはテレ笑いで,その場を切り抜けるのだ。そして外国では,言葉が通じないという思いからますます何も言わなくなり,ニヤニヤ笑ってごまかすことが多い。
それはまだ,日本人が洗練のレベルに達していないことの一例だと私は思う。
清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.133-134
PR