学校の成績がよくていい大学に入れる,ということだけが誇りの持てる人生かどうかの基準であるならば,ほとんどの子供にはその道が閉ざされていて,どう自分に自信を持っていいのかわからないだろう。小学校でも2,3年生ともなれば,自分が成績優秀な人間かどうかはわかってくるもので,どうもそっちではダメだなと思ったら,それから十年ばかり,その子はムカムカして生きるしかないではないか。
だから若者は苦悩し,なんとか自分が輝いていられる人生を捜そうとしているのだ。スポーツで抜きん出る,というのは自信の持てることだ。音楽の才能があって人々を楽しませることができても人気者になる。しかし,そういう方面に才能があって輝いた人生を手に入れられる子はほんの一握りである。ほとんどの,学業でもパッとせず,かと言ってスポートや音楽にもそう才能のない子は,何に誇りを持って輝いて生きていけるというのか。大多数のそういう子は,ものすごく面白くなくてイライラしている。
親子の愛情でもこれは救えない。だって,彼らに人生の価値は成績優秀しかない,ということを言うのが親なのだから。親は自分にものすごくそれを期待していて,自分はその期待に応えられない,というのが彼らの苦しみなのである。
親はどうして我が子にそんな期待をするのだろう。お前は私の子であるだけで最高だよと,なぜ言ってやれないのか。
その答は,親も自分の人生がそう輝いていなくて面白くなくて,我が子にそのやり直しを期待してしまうからかもしれない。
つまり,こう言ってもいいかもしれないのだ。子供たちがイライラしているのは,その親も自分の人生に満足できず,イライラしているからである。それが,ちゃんと教育されてしまっているのだ。
清水義範 (2003). 行儀よくしろ。 筑摩書房 pp.167-168
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