そもそも,「重要産業五ヶ年計画要綱」は,30年以上あとに発生する決戦戦争を念頭に生産力の拡充を目指していた。そのためには,少なくとも平時が10年は必要である。ところが,その前提が崩れ,日中戦争という当面の課題に対して,国家の資源を活用せざるを得なくなる。
このような動きのなか,「満州国産業開発五ヶ年計画」および「重要産業五ヶ年計画要綱」は換骨奪胎される。平次の生産力拡充という統制経済の理念は棚上げとなり,非常時における党制手段として利用されることになる。これは工学技術者の養成も同様だった。というのも,以後国が推進する施策が,基本理念や細部の内容こそ異なるものの,宮崎らのプランと同様の方向に沿って進められるからである。
そのひとつに,1939年の名古屋帝国大学の新設がある。同校は,名古屋医科大学を前身とする内地では7番目の帝国大学であり,設立時に機械,応用科学,電気,航空,金属の5学科からなる理工学部を設けた。名称こそ理工学部ながら,学科構成は明らかに工学部そのものだ。というのも,のちに名古屋帝国大学理工学部は,理学部と工学部に分離されるが,工学部の学科は理工学部当時のままだからだ。
また,名古屋帝大が成立した同1939年には,藤原工業大学予科の創設がなる。同校は王子製紙社長で「製紙王」と呼ばれた藤原銀次郎が,同社社長引退を機に私財を投げ打って設立した大学である。機械工学,電気工学,応用科学の3科でスタートした。そして,1942年に学部となり,1943年に藤原工業大学は藤原の母校である慶應義塾大学に寄付の合意がなされて,その翌年に慶應義塾大学工学部となった。
中野 明 (2015). 東京大学第二工学部:なぜ,9年間で消えたのか 祥伝社 pp.29-30
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