寄席演芸会の最後のピークとも言える東京オリンピックが開かれた昭和三十九年から大阪万博の催された昭和四十五年にかけて,おびただしい数の入門志願者があった。
テレビは白黒からカラーに代わり,『笑点』『お笑いタッグマッチ』『お笑い七福神』『大正テレビ寄席』等々,いくつもの寄席番組が人気を博した。関西に,松鶴,米朝,小文枝,春団治の四天王はいたものの,まだ可朝,仁鶴,三枝のブームはこなかった。マスコミにおける演芸会のスターは,東京の落語家だった。団塊の世代と呼ばれる若者はそんな姿に憧れ,こぞってその門を叩いたのである。
昭和四十五年一月,人形町末広がその幕を閉じた。談四楼は,客としてそれを見た。マスコミ人気と観客動員との間に,微妙なズレが生じていた。
談四楼が落語家になった昭和四十五年三月,すでに高座のない二ツ目があふれていた。人形町末広の後を追うように,目黒名人会の灯が消えたのは昭和四十六年のことだった。六軒の定席が四軒に減り,二ツ目には高座がない。その傾向は,昭和五十年代に入って更に拍車がかかったようだ。
「あ,もしもしお客様,入場料を……」と客に間違われる,いわゆる木戸を突かれるという現象があちこちで見られた。寄席の従業員が,滅多に会うことのない二ツ目の顔を,あるいは多過ぎる二ツ目の顔を,覚えないのである。
立川談四楼 (2008). シャレのち曇り(文庫版) ランダムハウス講談社 pp.184-185
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