1930年代になると,精神外科手術が広く行なわれるようになった。この分野の先駆者であるポルトガルの神経学者アントニオ・エガス・モニスは,精神疾患の生物学的治療法を確立しようと試み,のちにノーベル賞を受賞した。モニスが着想を得たのは,意外なことにイェール大学医学部の比較心理学研究室で行なわれた実験だった。ここの研究員たちは脳の前頭葉——額のすぐ後ろにある大脳皮質部位——の機能を調べるためチンパンジー対象に各種の実験を行なった。
ある実験では,研究員たちは正常な前頭葉をもつ,ベッキーとルーシーという名のチンパンジーを対象に記憶実験をした。実験者は二個のカップのどちらかに食べ物を隠す。次に,チンパンジーとカップのあいだにスクリーンを下ろし,秒または分単位で時間を変えてその状態を維持する。スクリーンを上げたあと,チンパンジーはどちらかのカップを選び,選択が正しければ食べ物をもらえる。正しい選択をするなら,チンパンジーは食べ物がどこに隠されているかを覚えておく能力があることになる。ただ,ヒトと同じく,チンパンジーは個性や情動に個体差がある。ルーシーとは違って,ベッキーは実験そのものを毛嫌いし,協力しようとしなかった。彼女はかんしゃくを起こしたり,床に寝転がって糞尿をまき散らしたり,記憶課題がうまくいかないと不機嫌になったりした。研究員たちは,ベッキーは実験神経症—実験室で動物にきわめて難しい認知課題をさせると起きる異常行動—であると結論づけた。つまるところ,ベッキーは神経衰弱だったのだ。ところが,ルーシーはそのような極端な反応は見せなかった。
複雑な行動に前頭葉が果たす役割を調べる実験では,研究員たちはベッキーとルーシーの前頭葉を除去した。術後は,どちらのチンパンジーも待ち時間が数秒を過ぎると記憶実験で失敗し,食べ物のありかを記憶するには前頭葉が必要であることを示した。他の認知行動には変化がなかったため,研究員たちはチンパンジーたちの失敗がいわゆる認知能力の破綻のせいではないことを承知していた。ルーシーは手術前と同じく実験に協力的だったが,ベッキーの行動はすっかり変わった。まったく予想に反して,ベッキーは課題に手早く熱心に取り組み,以前のような不機嫌な態度は鳴りをひそめた。そこで研究員たちは,彼女のノイローゼは前頭葉除去によって「平癒した」と結論づけた。
この偶然の発見がモニスの目にとまった。ベッキーの例,および他の動物実験や数例の臨床報告は,ヒトの前頭葉組織破壊によって情動および行動異常を治療できるという十分な証拠になると彼は確信した。精神疾患患者が見せる異常な思考や行動は,前頭葉と他の脳領域を結ぶ配線の異常に端を発すると彼は考えた。そこで,これらの誤配線を切断すれば,ニューロンどうしが健全な連絡回路を形成し,患者は正常な状態に戻ると主張した。
スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.47-48
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