私や同僚たちがヘンリーを研究した数十年にわたって,ヘンリーは数唱課題では正常範囲の成績を維持した。結果として明らかになったのは,ヘンリーは重い記憶喪失に見舞われながらも,短いあいだなら数個の数字を記憶として復唱できるという,くっきりとした対比だ。このことからは,ヘンリーの短期記憶は損なわれておらず,彼の障害は短期記憶を長期記憶に変換する過程にあるらしく思われた。15分間の会話でモレゾン家の出自について同じ話を三度しても,彼は自分が何度も同じ話を繰り返していることには気づかない。ヘンリーの脳内では,情報をホテルのロビーに導くことはできるが,部屋にチェックインすることができないのである。
この二種の記憶をはじめて区別したのは,有能な心理学者にして哲学者のウィリアム・ジェイムズだった。1890年,彼は頻繁に引用される二巻の傑作『心理学の諸原理』を著わし,その中で一次記憶と二次記憶について述べた。ジェイムズによれば,一次記憶は私たちに「いま起きたばかりのこと」を思い起こさせる。一次記憶の内容はまだ意識の中にあり,「いま現在」と考えられる時間範囲に入る。この文章を読んでいるとき,私たちは頭の中ですべての言葉をその瞬間瞬間に取り入れているだけで,積極的に過去から掘り起こしているわけではない。
これに対して,ジェイムズが唱える二次記憶は,「そのとき考えてはいなかった出来事や事実の知識であり,過去にそれについて考えるか体験したという意識が付随している」という。こちらの記憶は「貯蔵庫に保存された無数の他の項目に埋もれて視界に入らない状態から,蘇生され,想起され,掘り出される」。二次記憶では,情報はすでにホテルのロビーをうろつかずに客室で休んでいるため,発見して取り出さねばならない。
驚くことに,ジェイムズの記憶分類は彼自身の内観によって生まれたらしい。彼は実験を行なった心理学者と話をしたかもしれないが,彼自身は自分や他人に実験を行なってはいない。ところが彼がこの記憶分類を提唱すると,科学者たちはこれらの記憶過程を区別しようと研究室で行動実験を実施した。その結果,現在は短期記憶——ジェイムズの一次記憶——と,長期記憶——ジェイムズの二次記憶——と呼ばれる概念が生まれた。
スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.85-86
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