私たちが日常生活で記憶をどう使うかを研究するにつれ,短期記憶の理解もまたその複雑さの度合いを増していった。外界からの情報を取り入れるとき,私たちは多数の複雑な過程を脳内で行なっている。68×73を暗算するとき,私たちは計算し,答えを保存し,数字を組み合わせ,正確さを確認している。この作業は短期記憶に保存されている項目をただ反復するより労力を要する。つまり,それは頭脳労働なのである。「数字」や「掛け算」という抽象概念を利用し,その知識にもとづいて目前の問題に挑む。この種の過程は作動記憶(ワーキング・メモリー)と呼ばれる—短期記憶の作業拡張版,いわば認知行動が起きる脳内作業領域である。
作動記憶は短期記憶あるいは即時記憶とどう違うのだろうか。短期記憶は単純で,作動記憶は複雑だと考えるといい。作動記憶とは作業が活発に進行中の短期記憶なのだ。いずれも一時的であるが,短期の即時記憶は,短い遅延時間か遅延時間なしで少数の項目を再現する能力(たとえば,3,6,9と言う)であるのに対し,作動記憶は少量の情報を保存する一方でその情報を用いて複雑な作業をする(たとえば3×6×9の暗算をする)。私たちは短期記憶を使うときにはただ一定量の情報を反復しているだけだが,作動記憶を使うときにはその情報を確認しつつ必要な操作を行なうことができる。作動記憶は短期目標—長文解釈,問題解決,映画のあらすじを追う,会話を交わす,野球の試合運びを覚える—を果たすために必要な認知過程や神経過程を組織化する。
スザンヌ・コーキン 鍛原多惠子(訳) (2014). ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者H・Mの生涯 早川書房 pp.100
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