しかし考えてみてほしい。塾や家庭教師の力を借りず,独力で受験勉強ができること自体,才能である。問題集の解説を読めばたいていのことは理解できる学力が備わっていたからこそできた作戦である。山に篭もれば誰もが京大理学部に合格できるわけではない。
逆に,都会の塾の教室でひと夏を過ごしたとしたら,三木さんの場合,志望校に合格できていたかどうかはわからない。それは明らかに三木さんのスタイルではないからだ。早々にスランプに陥っていたかもしれない。
某大手塾グループの広報担当の50代の男性は次のように指摘する。「昔は,どんな参考書や問題集を使って,どんな風に志望校対策をするのかを自分で考えたもの。どう段取りを組むのかというところまでを含めて受験勉強だった。結果的に総合的な人間力を試すことになっていた。コツコツやるタイプもいる。先行逃げ切りタイプもいる。最終コーナーを回ってからラストスパートで勝負をするタイプもいる。入試の結果には,単なる知識量や学力だけでなく,作戦力や実行力,そして執念までもが反映されていた。しかし今,子供たちは大人に与えられたものをやるだけになっている。それが中学受験ならまだわかる。しかし大学受験までもがそうなってきている。入試で測れるものが,『疑いのなさ』や『処理能力』やせいぜい『忍耐力』くらいになっている」
おおたとしまさ (2016). ルポ 塾歴社会:日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体 幻冬舎 pp.139-140
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