1921年には,1910年国勢調査の人口構成比の3パーセント以下に移民を抑える移民法が成立していたが,ローリン報告はその成立後であった。そこで彼は,その基準年を,イタリアやポーランド移民が急増する以前の,まだノルディック系やチュートン系白人が優勢であった1890年国勢調査に戻すよう,議員を説得してまわった。このロビー活動は両院で成功し,クーリッジ大統領もこれにサインした。こうしてローリンは,断種法と移民制限法の双方の優生政策に,多大な影響を残したのである。
このような事情で成立した1924年の絶対移民制限法によって,以後のアメリカへの移民は1890年国勢調査の出身国の人口構成比の2パーセント以内に制限されることになった。この国勢調査は定義上のフロンティア消滅が確認された(1平方マイルあたり人口1人以下の土地はなくなった)ことで有名だが,絶対移民制限法によって東欧・南欧からの移民は,事実上不可能になった。これよりはるか以前に中国移民は禁止されており,日本からの移民も,日本側が送りださないということで政治的決着がついていた。この移民制限法は,アメリカは建国以来,WASP(白人,アングロサクソン,清教徒)が築き上げてきた国であり,これ以外の移民は拒否すると言っているのと同じであった。1965年の移民国籍法に変わるまで,アメリカの移民政策には,人種差別的な性格がつきまとい続けたのである。
米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 43-44
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