1933年の断種法は始まりにすぎず,ナチス政府は優生政策の射程を次々と広げていった。
同年11月には「常習犯罪者取締法」が可決される。ここでターゲットにされたのは,いわゆる「精神病質者」(Psychopath)だった。この「疾患」を遺伝病として断種法に組み込むことは,当時としてもさすがにはばかられ,不妊手術の対象にはならなかった。一方,当時のドイツ刑法第51条は,犯罪者とされた者が心神喪失にある場合,例えば「精神病質者」と認定された場合には,その免責を規定していた。当時の少なからぬ精神科医や司法関係者は「精神病質者」を野放しにするなと政府に迫った。常習犯罪者取締法は,刑法第51条で免責される者を各施設で拘禁し,性犯罪者については去勢手術も認めるというものだったが,この法律によって拘禁された人びとに対しては,出所と引き換えに不妊手術を実施するケースもあった。
1935年6月には「遺伝病子孫予防法」が改正される。ワイマール期に社民党の一部,急進派フェミニスト,そしてドイツ共産党(1918年に[独立]社民党より分岐)は,経済的理由を含めた妊娠中絶の合法化を強く求めたが,この時期には,妊婦の健康と生命が危ぶまれる場合の中絶が「緊急避難権」として認められるようになっただけだった。35年の「遺伝病子孫予防法」改正を通じて,ナチス政府は,こうした母体保護の中絶と同時に,さらに優生学的理由による中絶を合法化し,33年の断種法で列挙された疾患のいずれかに該当する女性が妊娠している場合,その中絶を認めるようにした。その際の条件は,本人の同意を得ること,妊娠6ヵ月以内であること,妊娠女性の生命および健康を危険にさらす場合には禁止,の3つである。しかし,その実施に関する政令は,断種法と同様,本人に同意能力がない場合,「法定代理人もしくは保護者」の代理同意でよいとしていたため,必ずしも本人の同意が必要とされたわけではなかった。実施件数は約3万件と推定されている。
1935年10月には「婚姻健康法」(正式名「ドイツ民族の遺伝的健康を守るための法律」)が制定される。この法律によって,結核や疾病,断種法に規定された「遺伝病」,あるいは精神障害などをもつ人々の婚姻が禁止され,また,婚姻に際しては,これらの病気や障害のないことを証明する「婚姻適性証明書」を前述の保健局からもらうことが,すべての者に義務化された。しかし,保健局はすでに手一杯の業務を抱え込んでいたため,すべてのカップルに検診のうえ証明証を発行することなど不可能だった。検診は当初「疑わしい」場合にのみ限定されたが,それも第二次大戦勃発後は実施されなくなった。
その一方で,健康なドイツ人については,婚姻や出産に際する特別の貸付金制度や,多産の女性を讃える「母親十字勲章」制度を創設しながら,「産めよ,殖やせよ」の政策が推し進められ,避妊や中絶は以前よりもいっそう厳しく取り締まられるようになった。
米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 95-96
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