戦後,遺伝性疾患の子供を含む障害児の出生を防ごうとする専門家たちが,もっとも懸念し,回避しようと努力してきたのが,ナチスやヒトラーの記憶と障害児の発生予防が結びつけられることであった。「青い芝の会」が出生前診断や胎児条項はナチスやヒトラーが行ってきたことと同根である,と批判してきたのに対して,そうした非人道的な所業とは違うのだと,彼らは繰り返し反論してきたのである。渡部氏のエッセイは,「青い芝の会」に批判されてきたような専門家たちにとっても,到底容認できるものではなかった。
1972年以降の優生保護法改正問題は,「優生」という概念の差別性が認識される大きな契機となったが,当時の優生保護法問題に対するマスコミの関心のありかは主として経済条項削除の是非にあり,産む・産まないの自由をめぐる「女の問題」という側面がクローズアップされていた。しかし,80年の渡部発言問題は,「優生」を,人権侵害や差別一般の問題として読者に広く知らしめ,日本において優生学とナチスやヒトラーのイメージの結合を決定的なものにしたといえよう。
米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 224-225
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