1995年12月に,自民党社会部会は突如として優生条項を検討する勉強会をはじめ,その後半年ほどで優生保護法は母体保護法に改正された。このとき,女性運動が主張してきた中絶の自己決定や,産婦人科医たちが要望してきた胎児条項の導入などは,論争的で早期決着が見込めない問題群として棚上げにされ,条文からの優生条項の削除と改正案の通過が最優先とされた。衆議院への法案提出から参議院本会議可決までわずか5日間であり,改正案提出の仕掛人となった自民党社会部長自ら「スピード違反」を認めるほどの早業であった。
スピード決着が優先されたため,強制的不妊手術をはじめとする優生保護法下での人権侵害や,反人権的な優生条項を放置してきた国の責任が,国会の場で問われることはなかった。つまり,優生政策の批判的総括を欠いたまま,優生的文言だけが忽然と姿を消したのである。なぜ,このようにあわただしい改正が行われたのだろうか。
米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝 (2000). 優生学と人間社会:生命科学の世紀はどこへ向かうのか 講談社 pp. 229
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