この件に関していえば,いちばん古い記憶が信頼できないというのは周知の事実である。スイスの発達心理学者ジャン・ピアジェは,思い出すたびにどきどきするいちばん古い記憶として,2歳のときの経験を挙げている。「私は乳母が押す乳母車に乗って,シャンゼリゼ通りを歩いていた。すると男が私をさらおうとした。私は乳母車に紐で固定されていた。乳母は勇敢にも私と人さらいのあいだに割り込もうとして,あちこちに傷を負った。私はそのときの彼女の顔の傷をいまでもぼんやりと思い浮かべることができる。そのうち群衆が集まり,短い上着と白い警棒の巡査がやってきて,男はあわてて逃げた。私はいまでもそのときの情景をすべて覚えており,それが地下鉄の駅の近くだったことも覚えている」。ジャンが15歳のころ,両親のもとに当時の乳母から手紙がきた。自分は悔い改めて救世軍に入ったので,過去の罪を告白したいと書いてあった。あのとき彼女は人さらいの話をでっち上げ,わざと顔に傷をつけたのだった。乳母は,勇敢に赤ん坊を守ったお礼にもらった腕時計を送り返してきた。ジャンは,子どものころに乳母から聞いた話を,心のなかで記憶に変えたのであろう。ピアジェ自身の言葉を借りれば,それは「記憶の記憶,だが嘘の記憶」になったのだ。
ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.39-40.
PR