でも,学問の世界において,トートロジー問題が不都合をきたすことはない。学問としての進化論は,特定の仮説——粒子遺伝,突然変異,遺伝子導入など——の集合体だ。学問研究の場においては,研究成果はその真偽が検証可能なものとして提出されなければならない。だから進化論の諸仮説も,さまざまな学問的約束事に則って,真偽の検証が可能なかたちで構築される。つまりそこで問題になりうるのは,自然淘汰説そのもののトートロジー性ではなく,あくまで個々の仮説なのである。その意味で,進化論の学説は学問的な限定がなされることで,その有効性が確保されているのだといえる。
他方で,日々の暮らしのなかで進化論の言葉やイメージが用いられる場合,事情はまったく異なる。私たちは多くの場合,生物の世界や人間の社会の実相を一挙にとらえる世界像として,進化論の言葉やイメージを利用する。つまり,進化論的な仮説や学説が本来必要とする学問的な限定をいっさい解除したうえで,進化論を利用しようとするのである。「適者生存の世の中だ」とか「適応できなきゃ淘汰されるだけ」といった言葉を発するとき,私たちはなんらの仮説も構築するつもりがないし,なんらの学説も提唱するつもりがない。そもそも,進化論由来の言葉を発することそれ自体が目的であり,ただ言いたいだけなのだから。
吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.135-136
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