進化論が言葉のお守りとして用いられる際,適者生存(自然淘汰)の原理には次のような操作が加えられていることになる。それは,適者生存のトートロジーを,言語の文法に導かれて「適者は生存する」という(トートロジカルに正しい)擬似文法とみなし,こんどはそれを,自然淘汰の足跡消去に導かれて「生存したのは適者だった」という(トートロジカルに正しい)命題で確証するという操作だ。つまり,トートロジカルにのみ正しい命題をあたかも法則のように扱い,こんどはその法則を,トートロジカルにのみ正しい命題によって確証するというマッチポンプである。私達は必ずしもそうと意識しているわけではないが,たしかにそのように行う(©マルクス)のである。
このような次第で,私たちは自然淘汰説のアイデアを誤解しつづけることになる。基準と法則との,定義と説明との,前提と結論との取り違えによって,進化論を理解し使いこなしていると思い込むのである。そのとき私たちは,ちょうど進化論にたいする反対者や批判者が指摘するとおりのやりかたで,言葉のお守りというトートロジーをつぶやいていることになる。反対者や批判者によるトートロジー批判に,もし一理あるとしたら,こうした進化論のお守り的使用についての批判としてであろう(とはいえ,反対者はあくまで進化論の全体に反対しているのだろうから,あまり意味のない想定だが)。
吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.145-146
PR