当時は過激な反ユダヤ思想がはびこっていた時代であり,ヴァイマール共和国ばかりが特殊なケースだと見られていたわけではない。たとえばベルリンに1918年から20年まで滞在し,本人の弁によると,現地のアメリカ人記者団のなかで唯一のユダヤ人だったというベン・ヘクトは,ちょっと意外なこんな体験を語っている。「奇妙に思われるだろうが,ドイツにいた2年間,ユダヤ人であるわたしは,反ユダヤ主義運動など見たことも聞いたこともなかった。ドイツで過ごすあいだ,一度たりとも,Jew[ユダヤ人の意]という言葉が侮蔑的に使われたのを耳にしたこともなかった。[……]第一次大戦後のドイツで反ユダヤ主義運動について聞いたり,見たり,感じたり,気配を察したりする機会は,どの時代のアメリカよりも少なかった」
あるいはヘクトは,以下に述べるふたつの理由から,あきらかな反ユダヤ的言論を意図的に見なかったことにしたとも考えられる。まずひとつ目の理由は,この問題に関して,アメリカ人は上から涼しい顔をして語るような立場にはないと彼が主張したかったため。もうひとつの理由は,第二次大戦とホロコースト直後の混乱期にこの文を書いたヘクトが,今回の惨事を招いた元凶は,平均的なドイツ人の国民性であるという理論を組み立てようとしていたためだ。ドイツ人はいくらか教養が高く学のある人物に見えたとしても,「個人の道徳観念よりも,指導者に従うという道徳観念のほうを優先していた」とヘクトは言う。別の言い方をすれば,ドイツ人は指導者の政策に魅力を感じて従ったのではなく,たんに指導者が忠誠を要求したため,それに従順に従っただけというわけだ。
アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.95-96
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