東京には,京都のことなどなんとも思っていない人だって,おおぜいいる。よほどのできごとでないかぎり,東京以外の現象には興味をしめさない人も,少なくない。見聞きにあたいするものは,みな東京にあるという考え方さえ,被地では流布している。
だが,そういう人たちは,洛中人士の前にあらわれない。教徒にあこがれる物好きだけが,近づいてくる。あるいは,メディア人もふくめ,京都をたてまつることで利益のみこめる人々が。
そして,彼らとの出会いがかさなるおかげで,京都人は誤解をしてしまう。首都東京も,京都には一目おいているのだ,と。どんな雑誌だって,企画にこまったらよく京都特集を,くむじゃあないか。そういって鼻をうごめかす洛中の旦那に,私は何度も出会ったことがある。
ああ,こういう人たちが洛外をばかにするのだなと,私はそのつど考えこむ。嵯峨などを低くみるのは,首都のメディアにもてはやされ,うれしがっている連中だ,と。言葉をかえれば,けっこう底が浅いんだと,私は思いたがっているようである。まあ,それが私の精神衛生につながっているということかも,しれないが。
井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.38
PR