ならば,ついでに書ききろう。
私は国旗や国歌,日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことも,いぶかしく思っている。あんなものは,東京が首都になってからうかびあがった,新出来の象徴でしかありえない。嵯峨が副都心だった平安鎌倉時代には,まだできていなかった。そこに,たいした伝統はないんじゃあないかと,彼らには問いただしたくなってくる。
どうして,近ごろの政権は,ああいうものを国民におしつけたがるのだろう。東京政府が,近代化の途上でひねりだした印ばかりをふりかざすのは,なぜなのか。明治政府ができる前の象徴には値打ちがない。そう言わんばかりのかまえを見せる現政権に,私は鼻白む。
もちろん,京都の文化からも,国民へ強制する要素をえらべと言いたいわけではない。嵯峨の文化項目を,私が国家的な象徴にしたがっていると,誤解をされるのはこまる。私は故郷の嵯峨を,こよなく愛している。そして,愛する嵯峨の何かが人々におしつけられ,怨嗟の的になるのは,たえられない。
何かで国民をしばろうとする姿勢じたいに,私は違和感をおぼえる。それが何であれ,うとましく思う。そして,強制の対象が東京時代の産物でしめられる点には,べつの意味であきれてきた。けっきょく,現政権の歴史展望は,明治より前にとどかないのかと,がっかりする。
井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.209-211
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