すべて良好というわけではないという最初の兆候は,未来に向かう記憶形式,すなわち展望記憶の衰えであることが多い。展望記憶とは,自分が何をしようとしていたかを思い出す能力である。これは健常者ですら問題の多い想起形式である。心のなかで「……を忘れないこと」とつぶやくことは,かならず忘れることを保証する暗号みたいなものである。もっと深刻な状態になると,計画の実行を遅滞なく思い出すことができなくなるばかりか,何をしようとしていたかを思い出すことすらできなくなる。それらは日常生活に悪影響を与えるだけでなく,衰退や低下のわかりやすい指標でもある。患者自身にとって,とくにはじめのうちは,記憶の喪失は耐えがたい。初期のアルツハイマー病の患者は,自分はもはや健康で正常な人が完全によく知っていることを知らないのだ,ということにひとたび気づくと,かすかな不安から完全なパニックに至るまでのあらゆる段階を経験する。「最終的には自分が忘れてしまったということもすべて忘れてしまうから,惜しいと思うこともないだろう」などという慰めは何の気休めにもならない。なぜなら,それは自分が人として存在するのをやめてしまうことを意味するからだ。
ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 p.312
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