京都の新帝国大学が,東京のそれの三分の二の規模を持つものとして構想されたことは,すでに見たとおりである。それがどのような理由であるのか,またその後の規模拡大の過程でどこまで意識されていたのかは,明らかではない。しかし現在に至るまで京都大学の規模が東京大学に及ばず,またその後開設された帝国大学の規模も,東京のそれを超えることがなかったことは事実である。というより,戦前期を通じて東京帝大とそれ以外の帝国大学の間には明確な,規模と組織編成上の序列がつけられていた。
大正八年,帝国大学令が改正され,分科大学制が廃止されて学部生に移った時点を例にとれば,各帝国大学の学部編成は,東京が法・医・工・文・理・農・経,京都は法・医・工・文・理,東北は理・医,九州は医・工,北海道は農・医となっている。東京帝国大学の独占的体制は,この時点になってもまだ,基本的に揺らいではいなかったのである。それ以前の時期についてはあらためていうまでもないだろう。
天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.54-55
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