繰り返し指摘してきたように,この時期の大多数の私学は官立諸学校に教員,それも非常勤講師の供給源を全面的に依存していたのであり,近距離に官立学校が立地していなければ,その設立や存続は事実上不可能であった。先にもふれたが,法学系私学が神田界隈に集中していたのは,ひとつにはそのためであり,裏返せば慶應義塾が三田,早稲田が高田馬場と,都心を離れた場所に立地しえたのは,創設時から専任の教授陣を擁していたためといってよい。
明治期はもちろん,いまなお続いている私立高等教育機関の圧倒的な東京一極集中も,このことと深くかかわっている。同志社や関西大学の不振は,京都や大阪に官立の,とくに法文系の学校が長く存在しなかったことと無関係ではない。京都帝国大学法科大学,さらには文科大学が創設されてはじめて,京都や大阪が,わが国第二の私立高等教育機関の集積地として発展を遂げる基盤が,用意されたのである。
天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.183-184
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