筆者は数年来,キャンパス内で正体を隠して学生質を勧誘する統一教会,摂理,親鸞会といった宗教団体や,学園祭において心理鑑定と生じて無料カウンセリングを行ない布教のきっかけにする幸福の科学,熱烈にキャンパス・クルセードを行う韓国系福音派の団体,及び自己啓発セミナー等の問題を指摘してきた。宗教の布教が悪いというのではない。布教の仕方が問題なのだ。要点をまとめれば次のようになる。
(1)宗教的価値であれ,スピリチュアリティであれ,集団心理療法的な自己発見・自己分析であれ,信じる・感じる・実践するに足るものであれば,堂々とパンフレットに団体名・活動内容・必要経費等を書き込んで学生達に配布すればよい。これらの団体に十分な情報とじっくり考える余裕を与えることなく,食事やプレゼント,手紙・メール等で相手に断ると悪いなという気持ちにさせて偽装サークルに誘い,信頼関係を構築した後におもむろに宗教の教えや儀礼,活動内容を教え込む。卑怯ではないか。
(2)大学では学問を学び,諸説を比較検討する知的柔軟性をもつことや批判精神をもつことを教育目標に掲げる。ところが,勧誘され,入信した学生達は信じること,指導者に従うこと,疑問を持たないことを信仰的であると教え込まれ,他の学生を勧誘して入信させることこそ信仰活動だと思うようになる。布教のマシーンに組み込まれ,従属的な人間になるために彼らは大学に入学したのではない。
(3)ところが,大学人のなかにはこのような諸団体の活動には苦々しく思いながらも,一般学生に注意を喚起するオリエンテーションの実施や,団体の活動に制限を加えたり,信者である学生に脱会を勧めたりすることをためらう人の方が多い。憲法に保障された思想・信条の自由を侵害することになる,特定団体に対する差別行為ということになりはしないかと心配するのだ。その結果,対策が後手に回り,この種の団体に人材を供給し続けることになる。
信教の自由という理念の中身は,鰯の頭も信心だからどんな宗教でも尊重されねばならないということではない。他者の信教の自由を尊重することなく,手前勝手な宗教的理屈から卑劣で執拗な勧誘行為を行う団体に対しては決然たる態度を取るべきだろう。大学は学生に対する教育責任を負う。学生の健全な学びの機会を阻害する団体は批判されて然るべきだ。
櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.212-214
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