ガレノスは壮大な一貫性と数学的論理をもって,いわば幾何学的方法に従って自己完結的な学問体系を構築したのである。四体液説にとらわれたガレノスはヒポクラテス主義をかかげながら,治療においては,それから離れた。不調の体液から生じる「邪悪物質」を排出する能力は自然治癒力の大きな要素の1つなのだが,瀉血は当然それを補う意味を持っていた。起源の古い瀉血はエラシストラートスらによって斥けられたがガレノス以来上り坂になる。しかし実際には十四歳以下の小児には瀉血を禁じ,老齢者にはやむを得ない場合のみ行った。過渡の瀉血で全身衰弱,浮腫,麻痺,精神障害を起こすため注意し,体力,年齢,疾病,気候を考慮した。持続発熱のある場合には体力があるもののみに限定し,季節は春秋を好んだ。
浣腸もまた同じ趣旨でガレノスが好んで用いた。ヒポクラテスのコス派と異なりガレノスは薬剤も多用した。対抗療法理論により手の込んだ方式を作った。解毒薬「テリアカ」は中世以降次第に万能薬となり,唐時代の本草書には「底野迦」の名がみられるし,本邦最古の医書「医心方」にも記載されているほどである。
藤倉一郎 (2011). 瀉血の話 近代文藝社 pp.16-17
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