1つ目の誤りは,犬を人格化したり,自分の思考や感情を自分以外のものに投影したりすることだ。人間がとかくやってしまいがちのことで,仕方がないとも言える。私たちの脳は生まれつき,自分の思考を他人の思考に投影する傾向にあるからだ。これはメンタライジングと呼ばれるもので,人間の社会交流に不可欠なものだ。相手の考えていることを常に推測しているからこそ,人は互いに交流できる。簡略化した携帯メールや,一度につき140文字までのコミュニケーションが上手く機能するのは,互いにメンタルモデル(訳注 心の奥底に持っているイメージや仮説。独自の思考フィルター)を持っているからだ。実際,ほとんどの携帯メールの内容は,最低限の言葉だけだ。また,人間は共通する文化要素を持っている。だから,ほぼ同じような反応を示す傾向にあるのだ。私は悲しい映画を観ているとき,自分の反応から,周りに座っている人も同じ気持ちだと直観で分かる。相手が全く知らない人であっても,自分から話しかけ,共通の経験を頼りに会話を成立させることができる。だが,犬は人間とは違う。人間のように分かち合う文化を持っていない。なのに,人間は犬の行動を観察するとき,どうしても人間の心というフィルターを通して見てしまう。あいにくだが,犬に関する本の大半は,犬のことよりも著者自身のことが書かれていると言えるのだ。
2つ目の誤りは,犬の行動の意味をオオカミの行動を頼りに読み取ろうとすることだ。これを“類質同像”という。実際,犬とオオカミは共通の祖先を持つが,犬がオオカミの子孫というわけではない。この区別は重要だ。オオカミと犬の進化の道は,「ウルフ・ドッグ」が人間と暮らし始めたときに枝分かれした。人間のもとに残った方が犬になり,去った方が現代のオオカミになった。現代のオオカミは犬と異なる行動をし,全く違う社会構造を持っている。脳も違う。オオカミの行動というレンズを通して犬の行動の意味を読み取るのは,人格化するよりもさらに性質が悪い。つまり,オオカミの行動を人格化したり,間違った印象を犬の行動の例えとして使ったりしているのは,人間なのだ。
グレゴリー・バーンズ 浅井みどり(訳) (2015). 犬の気持ちを科学する シンコーミュージック・エンタテイメント pp.44-45
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