語彙,音韻,語形態,統語などをすべて棚上げにしたとしても,チンパンジーの手話を見てもっとも印象に残るのは,彼らがとにかく基本的なところで「わかっていない」ということである。手話をすれば訓練者が喜ぶことや,手話を通じてほしいものが手に入る場合が多いことは知っているが,言語とはなにか,どうやって使うものかということを一度も実感として理解していないのだ。訓練者と交互に会話をすることをせず,相手と同時に手を動かす。手話はからだの正面ですることになっているが,からだの脇やテーブルの下などで手を動かすことも多い(足で「手話」をするのも好きだが,足の指が自由に動くのを利用しても,それを非難するつもりはない)。自発的に手話をすることはめったにない。訓練者が手を添えたり,繰り返し教えたり,強制したりする必要がある。文の多く,とくに,統語ルールに則った順序に並んだ文は,訓練者が直前にやったことの真似だったり,何千回も練習した少数の決まり文句をちょっと変えたものだったりする。ある特定の手話動作が特定の種類の内容を意味する,ということすらよくわかっていないようだ。チンパンジーの手話単語の多くは,その単語が言及する対象物と関連する状況の,どんな側面をも意味しうる。「歯ブラシ」の手話動作は,「歯ブラシ」,「歯磨き」,「歯を磨いている」,「私の歯ブラシがほしい」,「もう寝る時間だ」のいずれも意味しうる。「ジュース」の手話動作も,「ジュース」,「ジュースがいつも置いてあるところ」,「ジュースのあるところに私を連れていって」のいずれの意味にもなる。
スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.162-163.
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