乱世を生きた武士たちの,事がらをあるがままに見る能力が尋常でなかったであろうことは,彼らの生活ぶりを示すさまざまな史料からも想像がつく。雲の動き,川の流れ一つ見るにしても,戦国武士の眼力と我々のそれとでは,犬の嗅覚と人のそれとぐらいの隔たりがあるにちがいない。しかも,そのような高い能力を身につけていながらも,なお彼らは,事実のあるがままは容易につかみ難いことを自覚し,自らを戒めつづけていた。見る力はあるにもかかわらず,その上でなお見そこなうことはある。武士たちはそのことを警戒し,だからこそより一層分別の大切さを強調したものと考えられる。
都合の悪いことにはなるべく目をふさぎ,都合の良いことばかりを見ようとする本能は,武士たちにおいても変わることはない。せっかく事実のありのままを見抜く力を持っていても,自分から目をつぶってしまっては元も子もない。
たとえば,臆病な大将は,敵の軍勢を見えた以上の大軍だと受けとめ,逆に強すぎる大将は過少に見積もろうとする。これらはいずれも,あるがままを自ら歪め,偽っていることにほかならない。このように,あるべき1つの判断を外にして,自分に都合のよいように事実を曲げていくあり方は,『甲陽軍艦』のみならず,およそ武士道思想において最も嫌われるマイナス価値である。
菅野覚明 (2004). 武士道の逆襲 講談社 Pp.105-106
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