武士らしい武士とは何かを追求するのが,武士道である。この追求は,頭の中で納得されて終わるものではなく,ここの武士がその一生の上に実現することで答えが出されるものである。だから,武士道とは,結局のところ,一人一人の武士の,「俺は武士である」という自覚の形であるということができる。
武士は,あくまでも武士たらんとしたのであって,決して人間とか市民とかになろうとしたわけではない。しかも,武士とは,殺し,殺されることを当然のこととして承認するきわめて特殊な稼業である。その意味では,武士道の思想は,武士社会内でのみ通用する,普遍性を持たない思想であるということもできる。
刀を抜いて切りかかってくる武士は,今日の私たちにとっては,理解不能な他者である。しかし,そもそも「他者」とは,そういう理解不能な何者かのことである。殺し合いを前提として生きている武士たちは,まさに,他者というものをその本質的な極限において認め,それと関わり合っていた者であったわけである。他者とは,ついに届かぬ何者かであり,自己とは,切られて血を流し,痛みを覚えるこの己れである。こういう自他のとらえ方を,身をもって示す武士の思想は,今日の常識的な自・他のとらえ方を,根本から問いただすための手がかりを与えてくれるかもしれない。
今日の社会では,一応の建前として,自他の対立は,話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば,たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して,どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは,何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら,刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考え方を,野蛮であるといって片付けるのは簡単である。しかし,そういったからといって,自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ,武士を野蛮と笑うそのときに,私たちは,他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。
菅野覚明 (2004). 武士道の逆襲 講談社 Pp.225-226
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