ウィンストンは両腕をだらりと下げてゆっくりと肺臓に空気を満たした。心は“二重思考”の迷路に滑り込んでいった。知ること,そして知ってはいけないこと,完全な真実を意識していながら注意深く組み立てられた虚構を口にすること,相殺し合う2つの意見を同時に持ち,それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること,論理に反する論理を用いること,モラルを否定しながらモラルを主張すること,民主主義は存立し得ないと信じながら党こそ民主主義の擁護者だと信ずること,忘れ去る必要のあることはすべて忘れ,しかし必要とあれば再び記憶の中に蘇らせて再び即座に忘れ去ること,そしてなかでも,その同じ方法それ自体にも,この方法を適用するということ。それが窮極のなかなか微妙な点であった。まず意識的に無意識の状態を作り出し,しかる後にもう一度,いま行なったばかりの催眠的行為を無意識化するということであった。“二重思考”という言葉を理解するに当たっても二重思考を用いなければならなかった。
ジョージ・オーウェル 新庄哲夫(訳) (1972). 1984年 早川書房 p.48
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