なるほど世間のさまざまな出来事を“遺伝学”で講釈しつくすことができれば,それは確かに魅力的であろう。なぜなら,これまでは子供に何か問題があれば,すべて“親のせい”にするのが世の常だったのだから。親たちは,子供のしつけ方が少しでも寛容だと「放任しすぎである」,逆にちょっとでも厳しいと「キビシすぎる」,子供との距離のとり方が少しでも疎遠だと「冷淡すぎる」,緊密だと「密着しすぎる」と,どう振る舞っても世間から悪く言われてきた。だから,子供の問題で自分が責められるくらいなら子供自身の“遺伝子”に原因があるのだと考えたくなっても無理はなかろう。だが人間社会のトラブルの元凶を“遺伝子”のせいにする理由づけは,じつは親たちをこれまでの非難から解き放った途端に,あらたな非難の標的へと追い込んでしまうのだ。
遺伝子が私たちヒトの生物学的な機能のすべてに関与していることは間違いのない事実であろう。だが----単なる動物としてのヒトではなく----“人間”という社会的存在としての私たちの“在りよう”を決めているのは遺伝子ではない。遺伝子が人間の精神的・身体的・社会的成長に影響を及ぼしているのは間違いないだろう。だが人間は,一人ひとりに独自の,他の人々とのかかわりのなかで経験していく,膨大な社会的環境要因の影響を受けながら,全人的な成長をとげていく生き物なのである。
であればいったい,私たちが社会生活を送るうえで,遺伝子は実際のところどのような役割を担っているのだろうか?
その答えは出ていないし,今後,すっきりとした“御名答”が出ることも到底望めない。ヒトどころか,熟した果物に湧く豆粒より小さなハエでさえ,“生命機械(オーガニズム)”として見れば途方もなく複雑な構造をしており,それゆえ生命活動の全貌はこれまた途方もなく複雑なのである。
かくしてヒトは,生物学的に途方もなく複雑な個体を,途方もなく複雑に働かせながら,個体間の相互作用----つまり「社会生活」----を行なっている。この相互作用は,単純な化学反応のように予測することは不可能である。私たちが日常経験しているのは,かくも複雑な有機体同士の相互作用なのだ。このように複雑きわまる世間一般の人間模様については,遺伝学も分子生物学も,ごく限られた範囲のことしか解明しえない。こうした専門科学が私たちに語って聞かせられるのは,ヒトの遺伝子についての知識にすぎないのであるから。
ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 Pp.54-55
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