私たちの細胞に収まっているDNAは,ふだん本棚に収まっている“料理全書”のようなものだ。私たちはややこしい料理を作るときに本棚から料理全書を引っ張り出して,必要な箇所に目を通す。しかし皆が寝静まった真夜中に料理全書にひょっこり手足が生えてこっそりと本棚を抜け出し独力で料理を作るなどということは,おとぎばなしならともかく,現実世界では絶対起こらない。それに,料理の種類や作るかどうかを決めるのは私たちなのであって,料理全書がそうした“決定”をするわけではない。料理全書に載っている“調理指示書(レシピ)”を使うかどうか,使うとすればどう使うか,その料理を他とどのような順番でどう組み合わせるか,たとえば食事の最後をスープにするかケーキにするか,料理の味付けをどうするか等々,料理全書を参照するにしても決めなければならない段取りはいろいろあるわけだが,それらはすべて,料理をする人が,手元にある食材という物質的制限のなかであれこれと考えて判断することだ。DNAなり遺伝子の生態----つまり“生体内での利用のされ方”----を,料理全書と調理作業の関係に見立てるのは,我ながら気のきいた比喩だと思う。なぜならこうした類似点のほかに,DNAなり遺伝子が関与した遺伝と発生のプロセスも,調理作業も,ともに“状況にうまく適応し融通がきく”ことが決定的に重要な要素になっているからだ。腕のいい調理師はレシピを基本にすえながらも,それにとらわれず自由自在に料理を作ることができる。レシピが指定している食材や調理器具が手元になくても,職人の判断力と腕のよさでそうした不足を補ってレシピどおりの立派な料理を作ることができるわけだ。
ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 Pp.57-58
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