現代では「貧しいのは遺伝的に劣っているからだ」という“理論”はもはや受け入れられない。それなのにコシュランドは,「貧しいのは精神病のせいだ」という説をはばかることなく公言している。彼の理屈は,経済的困窮に苦しんだりホームレス生活をするはめになった人たちの問題の元凶を,まことしやかな医学用語を使って“本人の病気”のせいにしたり,本人のみに責任転嫁する“論理構造”をとっている。前者の態度を「医学万能主義(medicalization)」----または「医学的理由づけ」----といい,後者を「個人責任万能主義(individualization)」----または「医学的理由づけ」----という。本人の“生物学的体質”を諸悪の根源とみる態度は,昨今の人類遺伝学者たちが“社会問題”を“遺伝子のしわざ”とする傾向と同じものだ。だがこうした責任転嫁のしかたは,私たちにはすでにお馴染みの,ありふれた論法なのである。たとえば,発癌物質や空気汚染を放置しているせいで癌や肺疾患が蔓延し,タバコや酒を規制しないからタバコ関連疾患やアルコール中毒がはびこる。つまり社会的・環境的な不備が原因で特定の病気が蔓延していることは否定しようがないのに,医学者や政治家はそうした現実から目をそむけて,別の“元凶”探しに躍起になっているではないか。
もちろん誰だって,自分や,自分の愛する人の健康を気づかって暮らしているわけだから,その意味で「健康」を「本人」の----つまり「個人」の----問題と考えるのは,ある程度は妥当であろう。けれども私たちの「健康」状態は,体内の“生物学的異常”によってばかり起こるものではない。生活環境や労働環境の“不備”で起こることも,また確実なのだ。劣悪な環境のなかで病気に罹る人がいる一方で,罹らない人もいるという事実を考えれば,患者本人の“罹病性”(特定疾患への遺伝的な罹りやすさ)が一定の役割を果たしている可能性は否定できない。だがそうした“遺伝的体質”は修正できないにしても,環境を改善して病気になる危険性を減らすのは政策的に可能なことである。
ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 Pp.176-177
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