19世紀末には,この話題が公の場でもちきりとなったので,自治体の選挙では女性用公衆便所が進歩派のスローガンとなった。だがやはり,女性は非常に貞淑で清らかで慎み深いので公衆便所を必要としないと主張する保守派の人も,まだ存在していた。セント・パンクラスの教区委員だったジョージ・バーナード・ショーは,1900年にカムデン・ハイ・ストリートの女性用公衆便所を頑固に認めたがらない他の教区委員について詳述している。ひとりは,地元の貧しい花売り娘がスミレを洗うためだけに公衆便所に行っていることに不服だった。別の教区委員は,そうした設備を求める女性は「女性であることを忘れてしまったのだ」と主張した。交通に与える影響を知るために設置された公衆便所の実物大木造模型は,ショーによると,乗合馬車や荷馬車が通りかかるたびに故意による破壊の対象となり,「ありとあらゆる人にからかわれ続ける」物笑いの種になったという。問題は,1905年にようやく女性用地下公衆便所が建設されるまで解決しなかった。ショーの説明が興味深いのは,年老いた教区委員は,女性の身体について忍び笑いをする感じの悪い男子生徒と同じだという実態はもとより,階級に対するある種の先入観も表しているからだ。ウェストエンドの上品な中流階級の女性に公衆便所を提供するのと,贅沢品の利用方法をほとんどわかっていないカムデンの花売り娘や工場労働者向けに公衆便所を提供するのとは別問題だというのだ。
リー・ジャクソン 寺西のぶ子(訳) (2016). 不潔都市ロンドン:ヴィクトリア朝の都市洗浄化大作戦 河出書房新社 pp.264-265
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