以上,公人の問題発言に関して共通していえるのは,次のような点である。
最も重要なこととして,発言内容自体が誰かを傷つけるということへの自覚が乏しい。そんなことを個人的に考えたとしても(偏見や差別を有していること自体はもちろん問題だが),それを立場上表明すべきではないということが判断できなかった。これは公人としては決定的な問題であろう。
第二に,その場の一般的な聴衆だけを念頭に置いており,そうした発言を聞いて傷つくターゲットもいるということを十分に考えなかった可能性がある。しかし聴衆の中にもいろいろな人が混ざっている。それにその場にいなかった人たちにも,内容が伝えられていく可能性が大きい。ツイッター等インターネットもそれを助長する。身内の講演会などではとくにこうした間違いが生じやすいが,記者会見でもこうした問題は起きる。
第三に,とくに公園や遊説などでは,その場で受けたいというところに関心がいく。話を面白くしようというところに注意を集中し,そこにいない第三者への配慮がなおざりになってしまった,ということが考えられる。あらかじめ用意していた内容以外に「アドリブ」で示そうとしたため,なおさら細かい配慮ができなかったのかもしれない。
第四に,こうしたことが問題発言として扱われると,本人は別のことを言いたかったのだとか,全体の文脈を考えてほしいという弁解をしたくなるかもしれない。しかしターゲットにされた人は,当然,問題箇所の具体的な言い方のところに目を向けてしまう。
岡本真一郎 (2016). 悪意の心理学 中央公論新社 pp. 45-46
PR