戦闘状態の人間は,大体において無我夢中であり,一見冷静に見える者も,常軌を逸していることは否定できない。特に銃弾が,しだいに身に迫ってきて,空を切る音がピュッ,ピュッからパシッ,パシッと変わったり,平ぐものように這いつくばっている凹所のすぐ横のボサ(小灌木)の小枝が,一定の高さで,鎌で刈られるようにきれいに機銃弾ではじきとばされていくのを,わずかに顔を横にむけて横目で見上げているような状態では,戦闘の全般をパノラマのように頭に浮かべ,その中における自己の位置を正確に位置づけるなどということは,はじめから不可能である。
それは,自己の戦死の情況を自ら叙述することが不可能だ,という状態に似ている。ピュッピュッかパシッパシッとなる。それから先を知っている人間は,大体この世にいない。だが奇蹟的に,それを知りかつ生きている人間がいないわけではない。
先日小野田寛郎氏に会ったとき,氏は,奇蹟的に助かったある一瞬,銃弾が「見えた」と語った。そのとき私は,氏と全く同じことを海軍陸戦隊の一兵曹が語ったことを思い出した。ピュッもパシッも,その音が聞こえたことは自分が生きている証拠,そして銃弾はすでに過ぎさった証拠である。どのように身近を通ろうと,耳許をかすめようと,横を通過する銃弾は,音だけで,目には見えない。しかし自分の正面へまっすぐ進んでくる弾丸は,白刃が目にもとまらぬ速さでまっすぐ自分に向ってくるように,一瞬白く見えるが,音は聞こえない,と。
この兵曹の場合は,その無音の白刃が,胸元に右手でかまえていた拳銃に命中した。銃弾は破片となってとび散り,彼の右目は,半ば失明していた。私には,こういう体験はない。だがこれに近い状態にある人間には,戦闘全般の情況など全然脳裏にないことはわかる。彼が生きているのは,そこの全般的情況とは別の世界である。
戦記などに時々,激烈な戦闘状態にある自分を客観的に描いているものがあるが,私などには,一体どうやったらそういうことが可能なのか,さっぱりわからない。本当に戦闘を見たなら,その人が見た位置が明らかでなければおかしい。もっともフィクションなら別だが----。
山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.86-88
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